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(Part6)  大阪城
大阪城の歴史は大きく6つに分けることができる。    

1. 石山本願寺の時代    
2. 豊臣秀吉の時代    
3. 徳川幕府の大阪城再築    
4. 江戸時代の大阪城    
5. 昭和の天守閣復興    
6. 平成の大改修
        



1. 石山本願寺の時代  
 

秀吉の大坂城は「旧城」を改造して築かれたという。では秀吉以前の城郭とは、いったい誰のどのような城だったのだろうか?

1496年(明応5) 本願寺8世法主蓮如が石山本願寺の別院として大阪御坊を建立。これが石山本願寺の起源となる。
            ↓
1532年(天文元年) 山科本願寺本願寺が争乱に巻き込まれて焼き討ちにあったため、十世証如らが、翌年大阪御坊を本願寺とした。この後、寺内町が発展し、戦国時代に突入するにつれ武装強化も進み、11世顕如の頃最盛期に。
            ↓

石山合戦 
織田信長の天下統一の野望に最も頑強に抵抗したのは一向宗(浄土真宗)本願寺派の門徒集団であり、その総本山が法主顕如を推戴する石山本願寺であった。 1570年(元亀元年)から11年に及ぶ長い戦争の結果、1580年(天正8)信長は顕如を本願寺から退去させることに成功したが、堂塔伽藍は全焼し、現在もこの時代の遺構は謎に包まれている。

☆大阪の優れた地勢に目をつけた信長は石山本願寺の地を是が非でも手にしようとしたのだ。

  



4. 江戸時代の大阪城

この時代、大阪城は幕府から任命された城代をはじめとする大名や旗本たちの武士ばかりの城主のいない城だった。

また3度の落雷により天守、大手多聞櫓などを落雷で焼失し、大坂城の威厳は甚だ損なわれることとなってしまった。

            
↓そこで…
1843年(天保14) 町人の資金により天守を除く大修復工事に着手。

●最後の将軍慶喜と落城
14代将軍家茂が征長戦争の最中に大坂城中で病没、後を継いだ徳川慶喜は15代将軍として幕府崩壊までの1年余り大坂城と二条城を舞台に、諸外国の代表との会見などに活躍した。しかし、慶応4年(=明治元年1868年)幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れると、慶喜は大坂城を脱出、江戸へ逃げ戻った。その混乱の中で本丸台所付近などから出火し、近世城郭建築の精華であった城内の建造物はほとんど焼失。こうして、再築以来約250年を経て、大坂城は再び落城の憂き目を見ることとなったのである。

          ↓明治時代に突入し…

大阪城跡は陸軍の軍用地として整備され、維新の大火で焼け残った櫓や城門・焔硝蔵・金蔵などもすべて実用に供された。本丸内にも軍用建物が建て込み、市民や観光客の城内への出入りは禁止された

2. 豊臣秀吉の時代

天正11年(1583) 秀吉は石山本願寺跡に大坂城の普請(築城工事)を開始した。一般には日本のお城のシンボルは天守閣であるが、空にそびえる大天守が初めて作られたのは織田信長の安土城である。信長の後継者を自認する秀吉は、安土城をモデルとしながらも、すべての面でそれを凌駕することをめざした。秀吉は天下統一の拠点として権威と権力を象徴する難攻不落の巨城はその豪壮華麗な姿から「三国無双」と称された。

ところが…   

秀吉の死からわずか2年後の1600年(慶長5)、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した。慶長8年、家康は江戸に幕府を開き政権を掌握したが、豊臣家は徳川幕府成立後も天下掌握の夢を捨てられず徳川家との間に緊張関係を持続させていた。こうした状勢のなか、京都東山に豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の鐘銘(釣鐘の銘文→国家安康)に家康がクレームを付けたことをきっかけに、1614年(慶長19)大坂冬の陣が開戦された。講和によって終戦するが、堀がほとんど埋められてしまうという豊臣側に不利な内容であった。 大坂冬の陣講和によって城を裸城とされた大坂方は、埋められた堀の掘り起こし等の復旧工事を手がけた。これが再軍備とみなされ、冬の陣からわずか5カ月余りで大阪夏の陣開戦となる。大阪城落城。豊臣秀頼・淀殿の自刃により豊臣家滅亡するに至った。


5. 昭和の天守閣復興

昭和3年(1928)当時の市長、関一(せき・はじめ)が天守閣復興を提案。議会の賛同を得て推進委員会が設置されると、市民から寄付の申し込みが殺到し(ガイドサンが「1円献金」と言っていたはず)、わずか半年で目標額150万円(現在の600〜700億円に相当)に達した。こうして、市民の手によって歴史上3代目の大阪城天守閣再建が実現したのだ。
            ↓しかし
戦争に突入しまたしても甚大な被害を受ける。

戦災に加えて1950年(昭和25)ジェーン台風で甚大な被害を受けた城内の古建造物の修復など、戦後の復興には募金活動を含め官民挙げての取り組みが行われた。その後も今日までたび重なる修復・再建工事が続けられ、都心の真ん中の広大な史跡公園として整備されている。

1959年に豊臣時代の地下遺構発見。
            ↓さっきも言ったように…


現存の見事な石垣を太閤秀吉の築造と誤解しているが、石垣も堀も、地上に残る大阪城遺構のすべてが徳川再築以降のものなのである。



3. 徳川幕府の大阪城再築

徳川幕府は西日本支配を確立するために、大坂城と結びついた豊臣氏の威光を完全に払拭し、より豪壮な新城を築く必要があった。

大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城は、家康の孫である松平忠明に与えられた。忠明は、大坂の町の復興に努めたが、この間、大坂城の本格的な再建はなかったと考えられる。

1619年(元和5年) 大坂は幕府直轄領となり、翌年2代将軍徳川秀忠により大坂城再築工事が起こされ、3期に渡る工事を経て3代将軍家光の時に完成した。

●徹底した割普請
築城工事への参加を命ぜられた大名は、石高に応じて分担する石垣の長さを割り当てられた。各大名は組分けされて連帯責任と個別責任を負い、決められた工事担当区域「丁場」ごとにできばえを競い合わざるを得なかった。大坂城の石垣には、大名が自分の担当丁場を誇示するかのように家紋などの刻印が丁寧に彫り込まれている例が多く見られる。


刻印石

●石造りの巨城
大坂城の石は、廃城となった伏見城をはじめ、加茂(京都府)や六甲(兵庫県)からも運ばれたが、特に瀬戸内海の島々は良質の花崗岩の産地として、多くの石が切りだされ、海路、大坂まで運ばれた。これらの島にはせっかく切り出されたものの大坂まで運ばれずに残された石(残念石と呼ぶことがある)が見られるところもある。これらの巨石は、陸上では「修羅」と呼ばれた運搬具によって運ばれたと考えられる。大名の競争心に加え、築城技術の完成期に再築されたため、大坂城の石垣には高度に洗練された技術が見られる。

つまり…秀吉の大阪城は落城し、
それを再建したのは徳川。

現在残っている大阪城の基盤は豊臣ではなく徳川時代に作られたもの!


6. 平成の大改修

平成に入ってからも、改修工事は行われている。

復興天守閣も60数年の歳月を経て老朽化が進んだため、 1995年〜1997年に掛けて大規模な改修工事が行われた。建設当時の姿を甦らせて21世紀に残す事を基本指針とし、古いものを生かしながら新しい部材を補うという、最新技術と非常に高い施工精度が要求される改修工事であった。この工事の特徴は、架設工事を行った事であるだろう。特別史跡である石垣に建物荷重の負担が掛からないように、工事の進捗に合わせ大阪城全体を真綿で包み込むようにしてセットバック鉄骨構台が架設され、その上で工事が進められたのである。

大阪城全体に亘って工事は進められたが、大掛かりなものを幾つか紹介しよう。

まずは外からも非常によく見える屋根であるが、屋根は緻密な防水工事と銅板瓦の葺き直しが実施された。軒先金箔瓦は全て新調され、緑青あざやかな銅板瓦は約55,000枚全てを一旦撤去し、 8割が清掃・修復の上、再使用された。

外壁は、従来の壁を生かしながら剥落防止処置としてピンネット工法で下地処理され、 1〜3層は漆喰塗り、4層は墨入りセメントモルタル薄塗り仕上げで仕上げられた。 また、大阪城の比類のない装飾的な特徴である伏虎と鯱は一時撤去の上で修理されて純金箔を3度押し、その他の錺金物は2度押しされて改めて取り付けられ、その結果、燦然と輝く黄金の輝きが甦ったのである。

内装ももちろん改修された。各フロアの内装が風格のあるデザインで美しく一新されたに止まらず、大人数の観覧や高齢者・身障者への配慮から、展示空間の動線や照明、エレベーターの延伸・新設など設備や機能面も改善された。

こうして大阪のシンボルたる大阪城を、さらに美しく、さらに丈夫に。再び時代の最新工法と技術を駆使して黄金の輝く天守閣が甦った。

 



大手門 → 高麗門作り
大手門から入ってすぐの広場 → 枡形
(敵が侵入しにくい)                                         銃眼、雁木作り
多聞櫓 → 槍落とし  (イタリアのミラノの城にも槍落としに似たようなものがある)
千貫櫓名前の由来 → あの大手門を突破できるのなら千貫払ってもおしくない。つまりそのくらい難攻不落の城であった。

1〜7番まであった櫓 → 現存は1・6番櫓のみ。
太鼓櫓 → 時間をしらせる。
巨石 → 蛸石、振袖石(瀬戸内海産)

 

Report: Sakiko TSUJIMOTO

参考サイト
大阪観光案内 探訪・大阪城天守閣


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