大阪城ツアー    平成18年2月15日      大江真由

              

 

 

歴史 天正11年、豊臣秀吉は織田信長を悩まし続けた石山本願寺の後に天下人にふさわしい城を築く。秀吉が築いた名城大坂城も元和元年の大坂夏の陣で豊臣秀頼と共に灰塵と化した。
 元和6年から10年を要して、徳川幕府の威信を懸けた大修築が行われた。修築と言っても実際には秀吉の築いた大坂城の上に徳川大坂城が新築されたのだ。
 五層五階の大天守は、寛文5年に落雷のため焼失する。昭和6年、この天守台の上に、徳川時代の規模で秀吉の天守をモデルにした3代目の大坂城大天守が建てられた。

 

 

 

大坂城建築物          

 

大手門 重要文化財。大坂城の正門です。寛永5年(1628)の創建で嘉永元年(1848)に修復され、昭和31年(1956)に解体修理されました。現在も工事中でした。塀には丸いのと四角い銃眼が開けられています。大手門をくぐったら大坂城の中で第4位と第5位の大きさの巨石があります。大坂城にはいくつかの巨石があり、第1位の石は桜門をくぐった所にあります。

 

 

 

桜門 桜門は本丸の正門を守る重要な枡形で、特に立派な巨石が用いられています。明治維新の城中大火(1868)で焼失し、現在のものは明治20年(1887)に再建されたものです。門の両側の塀は昭和44年の桜門修理の際に復元されました。

 

 

これが1番大きい石の蛸石で、36畳分もあり総重量は推定で130トンあると言われています。蛸石の蛸とは石の表面左端に酸化第二鉄による茶色い蛸の頭形のシミがあることからとの説があります。

六番櫓 重要文化財。二の丸南側を固める隅櫓の一つ。寛永5年(1628)創建で天保年間(1830)に大修理が行われました。

 

一番櫓 重要文化財。寛永5年(1628)創建と考えられる。寛文8年と天保3年(1832)に大修理が行われました。

 

これらはもともと大坂城の南外堀方面の防衛を担う、一番櫓から七番櫓まである櫓群を構成するものでした。しかし戊辰戦争の際に四番櫓・五番櫓・七番櫓を喪失し、さらに太平洋戦争では米軍の無差別空襲を受け二番櫓・三番櫓も喪失してしまったそうです。ちなみにこれは戊辰戦争で唯一残った木です。冬なので葉がないにもかかわらず、力強さを感じます。

 

 

 

 

大坂城梅林

 

昭和47年(1972)大阪府立北野高校(旧制北野中学)創立75周年を記念して、同校の同窓会より大阪市に寄贈された約20種、計880本の梅の木を元に梅林が造成されたのがその始まりです。その後は年々、種類、本数ともに増え続け、現在93種約1250本にも達しているそうです。大坂城梅林がもっとも多くの花に包まれるのは例年2月末から3月上旬にかけてなのですが、今年は寒いのでまだあまり咲いていませんでした。ただこの梅林の場合、早咲きから遅咲きまで実に数多くの品種が揃っており、例年年末から3月下旬にかけての長期にわたって何らかの梅花を楽しむ事が出来るのが特徴だそうです。

 

 

ツアーを終えて

 

大阪のシンボルとして有名な大坂城といえば、わたしは天守閣のイメージしかありませんでした。確かにその姿は雄大で美しい。現在の天守は再建されたもので高さ51メートルですが、秀吉の建てた当時はこれよりもはるかに大きかったと言われています。当時の土木技術の高さに驚かされました。今回は天守閣まで上らなかったので、次回はぜひ天守閣に入り貴重な資料を見てみたいです。そして大坂城からの景色を楽しみたいです。

しかし大坂城の見どころは天守閣だけでなく、1つ1つの建築物からも歴史を感じることができます。特に石垣の高さは最高クラスだそうです。秀吉時代の大坂城は地下に埋もれているのでこの石垣や水堀は徳川時代のものなのですが、とにかく石の多さと大きさには圧倒されます。巨石もさることながら、大坂城の石垣は広域から集められたこともあり多くの石に刻印が見られます。大名の家紋を刻んだものや、石の産地を表したものなど、当時の人々の思いが伝わってきそうです。

また厳しい寒さの中で花を開き清楚に香る梅の花は、そのゆかしい趣から日本人を魅了してきました。しかし梅の原産地は中国であり、奈良時代以前に遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされたそうです。まだ咲き始めたばかりだったのですが、大坂城の威風堂々とした姿と、梅の花の優しく美しい姿のコントラストは絶景です。

地下に多くの歴史が眠り、地上は綺麗に整備された大坂城。もっともっと歴史を学び、大坂城を学ぶことによって見方や感じ方が変わってきそうです。